ZENガーデン-Z

還暦の変人雑記帳

かつて日本は長社会だった

f:id:hamajaya_ken:20210414230830j:plain

エリートと呼ばれる人や、地方の名士として一目置かれるような人であっても〈徳〉のない人は結構いる。そして学歴も地位もない、ただの庶民の中に心ある人は無数にいる。
その昔、日本は長(おさ)社会だったので、「地位あるものの責任」(ノブリスオブリージュ)という常識があった。地位の高さに徳の高さを伴わせようという〈道義心〉は江戸時代とかには結構あったのではないかと思うが、今はどうだろう?
『飛ぶタイヤ』の大企業のトップのリコール隠しも、地区公民館の管理運営者の放漫運営の有様も、「上に立つものほど己を厳しく律しなくてはならない」という〈道義心〉が社会から失われた結果なのだろうか、と思ったりする(大衆至上主義的価値観→俗悪な人間でも地位を手に入れられる←平等主義)

『一命』(市川海老蔵、瑛太、役所広司、満島ひかり)と『孤高のメス』(堤真一、夏川結衣)を昨夜から今日にかけて観た。

不合理な社会。それは封建社会も現代も同じだ。封建社会にも地位ある要職のものが虐待をするような人間であったり(『一命』)、純粋な外科医を陥れようとする邪な医者もいる(『孤高のメス』)
 いつの世も邪な人間はおり、真に裁かれるべきものが裁きを受けることなく、卑劣な行動が表に出ることなく、純粋な人間が代わりに裁きを受ける不合理が存在する。悲しいがそれが現実世界というものである。

しかし、そうした現実の重さ、過酷さと悲しみを承知の上で、『人として真っ当に生きる』ことを体当たりで模索し、一筋の道を生きるものに神は微笑む。

日月神示(大本系神示)の中に「今の世は上下ひっくり返っているが、いずれまたそれがひっくり返る」といった意味の予見がある。
現代社会の底辺に佇む者の中に真正な道を志すものがおり、社会の上層で栄華を得、社会的弱者を蔑み人を陥れることを何とも思わない者がいる。本来、どちらの人間が社会を動かす要の人材かは明らかである。
この時代を試練と考えるなら、底辺に佇みながらも真正な人の道への志を失わない人間にこそ〈生きる〉道が与えられることを祈り、望む。