葉隠れ三カ条 1〈死〉を生きる

〈どう死ぬか〉を決めねば、〈どう生きるか〉も定まらない

 

…いかに生きるか、とは、いかに死ぬか?である。

 

現代生活は、生き方、死に方を自ら選択しない限り、介護施設で生涯を終える人生が半ば自動的に決定づけられる。

私なりの理由で、そういう〈人生の終わり方〉は拒みたい。

介護職を数年やった経験から、私は施設で生活…生涯を終えるのは芳しくない、と思っている。(孤独死の方がまだいい)

 

具体例として…

執行草船が言うような〈完全燃焼〉をして人生を終えたい、と思っている。

それは私が、〈志〉として自覚する宿命を生き切ることである。

そのためには、人並みの幸福とか、余生の経済的保証とか諦めている。

たった独りでも〈志〉を貫き、死ねれば本望である、と覚悟すると人生は変容する。

生活に、〈志〉の根底にある大きな意志が浸透していくかのような変化。

いわゆる共時性と言うのか、運命のようなものが枝葉を広げていく感じである。

 

メメント・モリ(死を忘れるな)

私の場合、ちょっと極端な例だったかもしれないが、〈死〉を忌まわしいものとして考えることを避けるより、どう人生を終えたいのか?という終末期のあり方を考える重要性については、「どのような死に際をあなたは望んでいるか、人生のゴールを決めてプランニングに取りかかれ」と「7つの習慣」のスティーブン・R・コヴィー氏も言っている。

どう生きるか、を十全に思慮するには、どう死ぬかを思慮しなくてはならない。

それは自分の生き方とか価値観、世界観などを検証する行為である。

自分のイノチを全うする障害となっている価値観や世界観は捨てるに限る。

 

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