奥田英郎『ナオミとカナコ』とスティーブン・キングの『ローズ・マダー』について

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今日は、7月17日。ノア親子の方舟が、アララト山に漂着し、洪水後の世界に降り立った日が7月17日であった。

 

そして今日は、地域協議会の定例会が夜、あった。一言で表現するなら「停滞したカオス」

事務局員として参加2回目であるが、まとまりの悪さは感じる。

こうした地域協議会の自治グループの取りまとめ役員会というのは、市の行政と住民の円滑なコミニュケーションを補佐する役割かと思うが、多分に機能不全なところがある。その原因が何なのか、今の時点では明確に整理できていないが、取り敢えず、自分の職務に対しては能動的、体当たりでいく方針。

 

さて、本題だが、昨夜、奥田英郎『ナオミとカナコ』を読んだ。後半部は、拾い読みしながら、エンディングあたりはしっかり読んだ。

エンタメ小説の勉強をしようという不純な動機で読んだので、通常の感想文ではないことをお断りしておく。

 

奥田英郎『ナオミとカナコ』

エンタメ小説だから、仕方ないのだが、いくら酷いDV夫でも周到な殺人計画まで練って殺すかなぁ・・・というところが引っ掛かり、ナオミにもカナコにも感情移入というか共感意識が醒めてしまい、リアリティがなくなってしまった。
ただ、最後の方の二人の逃亡劇は、上手く逃げおおせるように応援する気分で読んだ。そこらへんの演出はうまいなぁ、と思った。
不満というか、納得いかない点。
まず、DV夫とその家族が悪役となっているわけだが、これだけ異常な家族なら結婚する時わかるだろう、と。旦那にしても、表に出さないにしても、これだけの異常なDV癖があるなら、何かしら察知できないと不自然に思える。
煎じ詰めれば、ナオミが殺人計画を立てる必然性が分からない。それともエンタメ小説とはこういうものなのか?
確かに、「このままではナオミはDVで殺されかねない」という緊迫感は描かれている。だが、そこで完全殺人を計画し、その計画の実行に高揚感を覚え、自己解放を結びつけるあたりは、違和感を感じる。「方向性が違う」と思った。正当性を感じないのでナオミとカナコに共感が薄れ、感情移入もできず、後半は拾い読みでストーリー展開の確認とエンディングの描写のうまさの確認で済ませた感じである。
葉隠れ的な観点でストーリーを考えるなら、全てを捨てて死に物狂いで旦那から逃げる。DV夫と命がけで対決する。そういう路線なら自分も感情移入できたかも。
(葉隠れ的な観点とは、自分の肉体の生命を捨てても魂(精神)を守るとか、そういう観点である。エンタメ小説とはいえ、ストーリー展開の面白さに加えて主人公の変容や精神の変化が描かれるべきかと)
  

スティーブン・キングの『ローズ・マダー』

 
モダン・ホラーの作家、スティーブン・キングの『ローズ・マダー』も狂気のDV夫から死に物狂いで逃げる女性の物語である。
キングの小説もエンタメだが、パターンとしては追ってくる敵と死に物狂いで戦う、という非日常世界の話が多い。
昔読んで、あらかたストーリーも思い出せないが、精神的な戦いをファンタジー的(幻想小説的)な手法も使って描いていた記憶がある。重要なのは、『ローズ・マダー』では、主人公の女性が戦うことを通して精神的な成長や変容が起きることである。
葉隠れ的に言えば、自分の命をかけないことは、遊びであり、邪さとすれすれである。
しかし、キングの小説はモダン・ホラーという大衆小説なのに時折、精神性を感じさせるのは、何故なのだろう?
(一つには、キングはプロテスタントとして神への信仰心を持っており、神と人間の関係性について真摯な問いかけを内面で行っていたと思われること)

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『ナオミとカナコ』で惜しいと思われるところ

カナコが妊娠したことで、生きようとする意志が強靭になるシーンが後半部にある。文学作品ならここら辺を丁寧に描くのだろう。エンタメだとストーリー展開が主体、あるいはアクション主体にならざる得ないから、こういう方向性(真相を追うDV旦那の妹からの逃走劇で締めくくる・帳尻を合わせる)を取らざる得ないのかもしれないが・・・・