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ROCKと武士道とマックス・リヒター

幸福を疑え (『現代の考察 〜ただ独りで生きる〜 執行草舟』を基に〈現代における武士道〉を考察する 1)

〈ただ独りで生きる〉ことと〈武士道〉

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『現代の考察 〜ただ独りで生きる〜 執行草舟 著』

 

精神のない〈精神世界〉と化した〈スピリチュアリズム〉というジャンルへの違和感

 

 昨日、神道関係で「生き方を説く」ような書籍はどういうのがあるのか調査しようと思い、中ぐらいの大きさの本屋に行く。(図書館でも見てみたが、仏教関係は多数あったが、神道関係はほとんどなかった)

 中型書店の入り口付近のベストセラーをちらっと眺めて、平積みの本を俯瞰すると、相変わらず、Daigoや堀江謙一など、一種の自己啓発というのか、心理学を応用した仕事「効率化」や「賢い」生き方をするためにハウツー本の洪水。さらに奥に行くと、中身の薄いスピリチュアリズム、そして某新興宗教団体の本がずらりと並んでいる。

 

 そこに、人々が求めているものが、渦巻くように反映していることを感じる。書籍は売れなくてはならないからだ。本を出す方も、読む方も「ラッキーな人生」を求めているんだな、と思う。少しでも「お得な」人生を……それが現代の価値観であるかのような。

 

 そこには、思想も精神もない。精神のない〈精神世界〉〈スピリチュアリズム〉が当たり前化している異常……

 

虚しさと違和感、徒労感に心を覆われつつ、それでもあとどなく書棚に視線を走らせる……

 

 その中に、ただ一冊、分厚い変わった本があった。〈『現代の考察』 〜ただ独りで生きる〜 執行草舟 著 〉…執行草舟? まったく聞いたことがない人だ。

 

副題の『ただ独り生きる』という言葉に強烈に魅かれる。それが「定め」なら、それを受け入れ切った先にしか自分の人生はないのだろう、という諦めと予感…を心に抱えつつ

 

 前書きを読む。武士道を説いた本らしい。否、著者自身が、武士道を生きてきた、という。その思想が語られている。

 

 さらに、目次と序文に目を通し、「最大限の幸福を求めること」が「生きる目標」と化している現代において、内面的少数者、異端者として生きざる得なかった自分にとって、武士道に思考を収斂させた著者の生き方から生まれた思想と精神は、大きな示唆があるように感じられ、数千円の本の購入を決断、レジに向かった。

 

〈個人の幸福〉と〈文明の中を生きる人間として求めるべき本当の幸福〉

個人の幸福は、いつでも足下にあるという。メーテルリンクの『青い鳥』が示すように幸福は、「気がつけば」いいだけだ、と著者は言う。確かに、命がある限り、生きていること自体が幸福だと認識することができれば、結果論として、幸福はいつでもある。

なので、「幸福を求める」「目的化」することは、自己矛盾である、と著者は結論づける。「幸福は求めるものではなく、それに気がつかなければならないもの」P26~27だという。

 

考察

相対的に(他者と比較して)幸福の度合いを問題にすれば、確かに差があり、そこに幸福度を高める、という価値基準(価値観)が生まれる。現代文明において、この価値観は暗黙の了解として共有されたものであるが、本来、個々の人間が根ざすべき普遍的価値観とは言い難い。人間が、人としてのあるべき生き方とは何かを真摯に問うなら、自己の幸福を追うことを生きる方向軸にすることは、幻影の価値観と言わざる得ない。それは、目の前に浮かぶ、手が届きそうで届かない浮き輪を求めて海原を漂う姿や、蜃気楼を求めて彷徨う姿にも似ている。

 

著者は「自己の幸福を求める生き方」は、「エゴイズムであり、物質文明推進のために国家がそう教育したものであり、そのエゴイズムを利用して経済成長をしてきた」と観る。

それに対して、「本当の幸福」とは「人類としての幸福」である、とする。p27

「人類がどうしたら幸福になれるのか、日本人がどうしたら日本人として幸福になれるのか」を考え、そのための方法として「自分が愛する人がどうすれば幸福になれるのか」「自分が勤めている会社がどうすれば幸福を得られるのか」こういうことを考えるのが人間の正しい存在であり、文明の中を生きる人間としての自己認識と言える……と。

そうした〈文明の一員としての自己認識〉がない生き方は、厳しい言い方だが、「動物と同じ」だという。

浜茶屋 注(これは、動物を卑下しているのではなく、人間のみが発達した大脳により言葉を駆使し、抽象思考によって科学技術を発展させ、場合によっては地球環境を破壊しうる力を持ちながら、その責任と真摯に向き合わず、己の損得のみに終始し、能力を持たされたことへの責任を放棄した生き方をするなら、動物以下ということを言いたいのではないか、と。)

 

序文からの抜粋

 

 〜

 武士道とは、人間が人間であろうとする魂の雄叫びである。私はそう考えている。魂とは、我々の肉体ではない。それは民族の初心とも言えるものでは無いだろうか。それを守り抜くための戦いが、武士道を生み出したと思っている。何よりも自己の幸福を重んずる現代において、武士道を貫く事は至難の業かもしれない。しかし、科学思想と物質礼賛によって魂を抜かれつつある現代にこそ、武士道は必要なのではないか。私はそう確信するのである。

 それでは、この現代において武士道的に生きるにはどうすれば良いのか。それを考えたい。それには、武士道を前時代的なものとして特別視しないことが大切になると思う。武士道は、民族の魂が具現化した日本文化の中枢なのだ。武士道に言われている、その体当たりと命がけで生きる思想は、我々にとって当たり前なのだと思うことが必要である。そして現代の病とも言える、自己の幸福追求に歯止めをかけることであろう。

 我々の真の幸福は、文明社会の一員として自己の生命を文明そのものに捧げ尽くすことにある。そのために必要なことを、私は自己の運命を抱きしめるその生き方の中に見出してきた

「運命への愛」と言う考え方に、現代人が武士道を行うための根源思想があるだろう。自分に与えられた運命こそが、自己の武士道の骨幹を作り上げるのである。人間のひとり、日本人のひとりとして生まれ、他者の愛によって育まれた自分を認識する必要がある。それだけによって、現代に自己の武士道を打ち立てることができるのだ。

 現代に生きる我々は、その生き方を日々の仕事によって試されることになる。仕事とは社会の中において、自己の信ずる「義」を打ち立てる行為に他ならない。そして、この不合理の世に自己の義を貫くにはやり方があるのだ。私はそれを語りたい。不合理の世は、不合理によって突き進まなければならない。死ぬために生きる武士道の不合理性が、ここで輝いてくる。武士道を見出したものが、文明だと知るとその理(ことわり)がわかるのだ。義を貫くための文明的叡智が武士道なのである。武士道によって、私は本当にやりがいのある仕事を、この世で仕上げてきたと思っている。

 この世において、その「義」が抵触するものが「仁」である。その仁を行うものが家庭なのだ。現代において武士道は、この家庭と最も相容れない姿を呈することになるだろう。その打開策を呈示したいと思っている。仁と義が、もともと相克するエネルギーだということを知らなければならない。反発は、体当たりによって「核融合」しない限り、絶対に乗り超えることができない。その方法論を、武士道的な観点に立って考えていきたいと思っているのだ。

                          執行草舟

 

(太字、下線は浜茶屋がつけたものです)