少数者と武士道

執行草船を読み込むことをメインに

この孤独な景色を

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生きることは〈向上すること〉、成長し続けること、である。
わたしにとって。
 
だから、向上性を失い、ただ生き長らえるだけになったら……生きることを辞めたい、と考えている。
向上することを止めることは「死」だから。
(…だが、それも実は傲慢で、観念的な考えなのかもしれぬ…という考えも最近生まれていたりしている)
いずれ、突き詰めて考えてみたい。
 
 
 
昨夜、かごめの歌の謎の歌詞の「後ろの正面」についてのナゾが解けたというか、自分なりの閃きで納得できるものがあり、それについて記事を書いていたら、ちょっと宗教的というのか、精神世界がらみなものになってしまった。
 
……いかん。わたしが中学生の頃から貫いていることは、ロックリスナーであることと、自分が変人で周囲と異なりすぎる人間であったために、そういう人間はどう生きたらよいのか?と悩み迷い続けた……というようなことしかない、半端で俗にまみれた人間…というのが実態なので、そこらへん、買いかぶられないようにしないとな、と思い、少し自分の履歴というかプロフィールみたいなものを書いてみようとおもう。
 
中学生の頃の私・・・・ロック好き。と思想哲学みたいなものを読んだり考えるのが好きな変人で、学校、親の生き方、社会の在り方等々、ものすごい違和感があった。今振り返ると、日教組の教師や、左翼イデオロギーの蔓延、自虐史観、経済成長まっしぐらで「金さえもうかりゃいい」的な価値観に浮かれたような時代だったので、そういう社会に「信用できないもの」を感じていたのは正しい。
しかし、悲しいかな、広い意味での『左翼的価値観』に染まっていた部分もあると思う。日本について「好きになれない」感じがあったし、保守や右寄りの思考は、古臭く、戦前回帰的な恐ろしい思想だと思っていた。みごとに朝日新聞的的価値観に洗脳されていた部分もあったわけで、反省しきりというか、でもそのお陰でサヨクの心情とか今でもよくわかる部分もある。
 
十代後半、二十代前半くらいまで、自分はなんとなく政治的にはリベラル、サヨク寄りであり、(というか)原則、政治・経済には全く興味がなかった。
ひたすら形而上学的なこととか、サブカルチャー的なものに関心があったり、哲学的探究心が高じて精神世界のさまよい人になってしまった。
異端者として生きる苦しみから救われたかった、というのもある。とにかく10代、20代は花の青春時代どころか、模索し、迷い悩み苦しむ救いのない暗黒の時代であった。
 
そんな迷えるサヨがかった自分のターニング・ポイントになったのは、20代後半、『相似象学』という、カタカムナ文献の解読者である楢崎皐月の後継者の宇野多美恵という方の御自宅での少人数の勉強会に参加し、カタカムナ文献の解読やカタカムナの世界観や哲学の理解に繋がる論語やら和歌、俳句などいろいろ勉強させていただいたことである。日本語のルーツと日本人の思考構造の特異性、そして本来の日本人の古来からのDNAの素晴らしさに目覚めたことが、現在の私の『保守自由主義』的スピリッツの発端になっている。
 
自分にとってこの勉強会で得たものは多く、(…というより、かえがえのないものを学ばせていただいたことに対して、宇野多美恵氏にはどんな感謝の言葉でも言い表せない…たぶん、カタカムナの哲理をここで学ばなかったら、自分はこの齢まで生き抜くことはできなかっただろうと思うし、そういう意味では命の恩人、と言っても過言ではないのだが…未だになんのお返しも出来ない自分がもどかしい)
 
客観的に観て、カタカムナの精神を継承できているとは言い難い、まだまだ半端者の変人に過ぎないが、「向上し続ける」という精神だけは失なわずに生きれているのも一重に、20代にカタカムナを学んだお陰だと思っている。
 
自分の場合、ロック好きだけに、破綻者的なところもあり、二度の離婚で円満な家庭も築けず失い、何か秀でた仕事を成し遂げたこともなく、この歳で収入は貧困層の部類…という、まぁ社会人としては、お恥ずかしい限りの『馬鹿者』である。
 
それでも、生き続けてこられたこと、子供たちとの縁やつきあいが細々とでも続いていること、齢88と83歳の両親を家で看られること、などある意味、守られ、『恵まれている』と、実感している。
底辺生活者ではあるが、ある意味、『救われている』ことを認識している。ありがたいことである。(書きながら、こんな自分を支えてくれている多くの人たち、見えない存在に感謝が足りてないと素直に思える。申し訳ない…)
 
宇野多美恵氏から教わったことで(カタカムナの哲理に基づく価値観なのだが)、「向上性こそが人の証、存在意義」「向上性を失うことが生命の輝きを失わさせる」「50代でも殻を破って向上し続けることが大事」(50の坂で自己成長をストップしない)といったことがある。(理由は、カタカムナの解読、感受には年月がかかること、感受性と脳の鍛錬が必要であり…言い換えると魂の成長と脳のシナプス網の構築が必要であることなどによる)
 
私は今、58歳。肉体の衰えは随所に出てきているが、精神活動は「学び続ける」という意欲と素直さだけは失っていない。疑念を持ったことは、とことん調べ、考察し、それなりの答えを見出し、脳の神経細胞網を開拓し続けている。そういう意味では、お金はないが生きがいと言える最高の道楽(と言えるほど気楽な感じではないが)「生きるよろこび」や楽しみもあり、知的好奇心も変わらずある。(性格は相変わらずズボラで破綻者気味だが)
還暦を前にした年齢で「自分はどう生きるべきか?」を考え続け、必要とあらば生き方を変えていく率直さ(?)や柔軟性を持つおっさんというのも珍しいほどの阿呆なのかもしれないが。
 
 
「迷い多き人生」の成果は?
 
何かしらの才を発揮して、社会的成功を得たわけではないが、正邪の弁別、自分を見つめる眼(=社会や世界を観る力)、というようなものは、若い頃より鍛えられ成熟してきているのは感じる。(それでよく、過去の自分を思い出し、恥ずかしくなる)
 
人間的には多少はましになったか、と思われるのだが、「このために自分は生まれてきた」と言えるような「テーマ」「役割」を果たしたいと考えている。
 
ある時期までは「カタカムナの伝達」を使命と考えていたところもあるが、今現在は「ほんとうのカタカムナをわかるような(ひびく)たましいを持つ少数者の役に立ちたい、と思っている。(ここ何年ももうカタカムナの学習には手をつけていない)
 
宇野多美恵氏は、「カタカムナを解るのは少数者だけであり、少数者が潜在能力を発揮することでカタカムナの哲理は正しく伝達しあえる」と言っていた。
 
これは100%真実である。自分は少数者の端くれというか、たぶん「ギリギリ」の際どいラインに位置するに過ぎない阿保であるのだが、自分と同じタイプの「歪んだ社会に適応しきれない」たましいの正直さを持ちながら、しかし潜在能力を、現実問題を処理する波動的な能力として発揮できなずに「苦しんでいる潜在的少数者」は、この社会に一定数、埋もれている、と考える。
その数は人口の0.1%もいないかもしれない極微の「少数」かもしれない。(感覚的にはそのくらいの割合であるように思える。計算すると10万人くらいだが、10代から60代くらいに限定すると数万人。以外に多い。この内何人が無事生き延びているだろうか?
 
しかし、その極微の「少数者」は救われなけばいけない。(少数者の救いとは、潜在能力を発現するための鍛え方を知り、正しい方向軸を得る、ということである。あとは自助努力次第であるが、現代社会は〈すべての人間は多数者である〉という前提で形成されている。少数者専用の哲学も宗教もスピリチュアリズムも心理学もない。新たに生み出さない限り、存在しない。
 
ちなみに、少数者を英訳すると「マイノリティ」であるが、通常、マイノリティとは、同性愛者、性同一性障害を持つ人や障害を持つ人や民族的マイノリティー等を指す。
現代社会はこうしたマイノリティに対するセーフティーネットは整備されている。(性同一性障害はそうでもないが)彼らは一応、目に見える形で認知されやすい。もしくは自分自身で認識できるという点では、少数者よりは救いがある。(無論、生きていくことは大変だろうと思うけど)しかし、少数者より自己認識はしやすい。だから社会とのギャップをどう埋めるか?という解決法も認識しやすい。
 
しかし、たましいの少数者の方は、〈存在することすら認知されていないので、その結果、ここで言う〈少数者〉は、「自分は何者なのか?」「何のためにこの社会に生まれて来たのか?」見出すことが難しい。自分で自分が何者か?認識も承認も出来ない辛さ、である。
 
「なぜ自分は、他の多くの人が疑問を抱かずに受け入れている普通の生き方に馴染めないのか?」「世の中の価値観や世界観、人間観と異なる感じ方をするのか?」わからない。
 
不幸なことに、そうした「少数者」の苦しみは、多数者には察知すらできない。だから少数者は「行き場のない孤独感」「孤立感」を抱きやすい。
 
しかし、生きるためには、そうしたことに蓋をして、無理してでも多数者に同調して生きるしかない。
 
しかし無理が過ぎると破裂する。引きこもりや鬱になるケースもあるだろうし、取り返しのつかない悲劇も起こりうる。
 
宗教に救いを求めたり、精神世界の遍歴者になったり、新興宗教に嵌ったりすることもありうるだろう。(かつてロックは異端者の音楽だった時代は、ロッカーになるという手もあったが…)
しかし、いずれの道を選んでも〈少数者〉の渇きは満たされない。
 
少数者がいかに生きるべきか?を筋道立てて示す哲理は、ほぼ、この世のどこにもない。模索し、断片をつなぎ合わせ、どうにかこうにか生きつないでいく。(海外の才能ある少数者タイプのロック・ミュージシャンが若くして死ぬ傾向があるのは、社会適応できないまま〈自分自身の確信を持てる生き方が見いだせない〉からである)
 
 境界性パーソナリティ障害という心の病がある。異性などに自分を明け渡しすぎて、その反動で相手を極端な拒絶に走ったり、自傷行為に走ったりする心的自己制御機能がおかしくなる障害だが、この病の原因は、幼少期に親に受容されなかった記憶(ありのままを受け入れてもらえず、つくられた自分しか承認されなかった経験)によって大人になって発症するものである、というのが定説になっている。
 
「相手を承認する」ことの重要性は、介護などにおいても重視される。
また、こどもが親に求めるのは「解決策」より、まず自分の苦しみや悩みを「共感的にわかってほしい」、いや、苦しんでいることを知って欲しい(承認してほしい)という欲求である。親は解決策を指示するより、子供の心情を共感的に理解するために「傾聴する」ことが重要である。
 
認知症介護の場合、高齢者の要求にやみくもに従う以前に、「どういう気持ちからそれを求めているのか」まず傾聴し、不満や不安感などに共感的に対応するスベが求められる。
 
何が言いたいかというと、人間にとって「ほんとうの自分がどんな人間であるか」解って欲しい、という欲求はアイデンティティーや存在意義に関わる重要事項であるということだ。
 
自分の存在が認められるーーー認められたい、という欲求は、マズローの生存欲求(ピラミッドでよく示される)では、身体欲求の充足と並んで、社会的承認欲求は根源的なものとされているのであるが…
 
「人間は、多数者のみで社会は成り立っていて、〈少数者〉など存在していない」という人間を均一の分子に見立てる現代の社会常識(共産主義思想的な人間観の影響が色濃いかと思われる)は、少数者の存在そのものを認めていない。承認以前に、認知すらしていないのである。20世紀初頭より時代が下るにつれ、少数者という存在に対する暗黙の認識自体が淘汰され、同時に少数者の存在も消失していく。
 
多数者は「向上的に生きる」ことを自発的に求めている、とは限らない。危険を課して、あるいは苦労して向上性を発揮するより、安定した無難な既存の生き方でも満足できる。どういうことに幸福や生きる喜びを感じるかは、多数者と少数者ではかなり異なる。持って生まれたサガである。どちらも正しい。ただ、少数者は「自分なり」の生き方が見つけづらいのと、承認されづらいという苦しみがつきまとうため、自分を痛めやすい。
 
少数者は人並みの幸福より、「真実を知りたい」「人として本当の人生を生きたい」等、求道的な欲求が強かったりする。そうした求めを満たされない苦しみを覚えやすい。
 
例えば、わたしにとって「生きる意義」は「向上し続けるよろこび」である。救いようのない馬鹿という側面もあるけど、例えば判断を下せない問題に、理解を通して「判断」できるようになると嬉しいというかすっきりする。疑問を持つというのは、答えを見出す能力がある、ということである。潜在能力として。
 
政治思想もそうだが、精神世界に関してはさらに魑魅魍魎があらゆる手練手管で罠を張り、善や正義を装う悪魔が潜伏し、待ち構えている。判断を間違えば命取りにもなる。だから巧みな嘘偽りを見抜く心眼が必要だが、現代社会では同時に「脳の鍛錬」も必要である。
しかし「頭の鍛錬」に偏るとオカシクなりやすい。だから「凡事徹底」のような禅的修練に回帰しようという衝動も生じる。
 
「道なき道」を行くのも、それなりの苦労がある。生き続けること、前に進み続けること、霧に覆われた山頂を目指して上り続けることは容易ではない。世間的生活と求道的課題と一致させ、バランスを取らねば足元を掬われ転落の危険がある。
 
学習し続けること、そして自分自身を成就することを忘れたくない。そして、自分の役割を果たしてからこの世を去りたい。こういった衝動が、魂の核から湧き上がってきてしまう。
 
 
 
 
 
 

『清春   この孤独な景色を与えたまえ』

 
 
この孤独な景色を君が見ない様に
 
・・・・・・
 
・・・・・・
 
この孤独の全てを僕に与え給え
 
・・・・・・
 

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