私なりの『禅的生活』

内なる神と出会うには?

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最近、『凡事徹底』と言うことに惹かれる。
 
住まいや部屋の掃除、片ずけ、家事、車の洗車、清掃、生業である介護の仕事、家族への思いやり・・・そうした「日常的生活の些細な、当たり前のこと」を修練として、あるいは『生きる基本』として大事にし、意識的に、気を行き渡らせて行う。
 
…というようなことが大事なだな、と最近、意識するようになり、自分なりに心がけ、怠けつつも努めて見て、その効果なのか多少、内心の変化があったのでレポートする。
 
例えば、床を雑巾がけすると気持ちがすっとする。
→ その清涼感で、自分の驕り、慢心などの『汚れ』がよく見える →  気づきやインスピレーションなどが得られ、自分のありのままを認識しやすくなる。…といった変化。
 
 

具体例

 
自分の場合、老いた父親に苛立ちを感じやすい。それなりに正当な根拠や理由もあったりするのだが、些細なことに鬱陶しさを抑えられない自分に自分で過剰に反応していると感じることも多い。そんな時は必ず自己嫌悪を感じる。
 
自分自身の心を見つめて解るのは、そう言う時は、負い目の裏返しであったり、至らない自分自身の投影だったり・・・自分自身で「為すべき」と思っていることを疎かにしていることへの苛立ちを、父親の振る舞いに投影して苛立ったりすることがあるのに気づく。(父親の問題ではなく、自分自身の問題だと)
実際に改善することは色々と努力が必要だが、こうした気づきは悔い改め、改心に繋がる。
 
 

人は「内なる神」に生かされ、導かれている

 
『凡事徹底』とは、自分自身を写す鏡(自己客観化する)を磨くことなのかもしれない。自分の心を写す鏡が曇り、汚れたり埃が付着したりしてるのを掃除する。
鏡に写された「ありのままの自分」を見て、自分の歪みに気付けるのは、自分の背後にいて自分を支え、導いている〈内なる神の存在〉が見つめてくれているからだと考える。
 
内なる神とは、自分の魂の核の奥にいる、と感じる。と同時にそれは、自分を包み込む環境にも遥か遠くにも偏在している、とたまの瞑想で感じたり、日常生活でのモノゴトの巡り合わせや人や物との出会いにそうした力を感じることもある。
 
 

〈うしろの正面〉にある内なる神との対向

 
それは『うしろの正面』なのだと思う。ウシロ(潜在的世界)にあって、自分を支え、イノチを与え、生かし、守ってくれている存在。
 
内なる心の鏡に自分を写して見るとき、それは正面から自分を見つめている。(現象の自分を冷徹に、あるいは暖かく静かに観ている)
 
つまり、自分自身を客観視して『観る』時、私自身を『観ている』内なる神と向き合っているのかもしれない。
 
そしてそれが『内面の気づき』をもたらす…ということかもしれない。
 
そして、内面の気づきによって現象の自分は、悔い改め、改心の努力をする、という行動をする……
 
 
そんなような感じで、自分は「内なる神」の導きで生かされ、生きる努力をしている、と言える。
 
 
・・・こんな感じのことが、私なりの『宗教的生活』『禅的生活』であり、そして『信仰心』である。
 

『凡事徹底』を心がけ『静寂の時間』(自己客観化のトキ)を持つ

凡事こそ修養の場として疎かにしない、という姿勢。
それが、自分が実現したい『シゴト』の具現化、果たしたいと思っている自分のライフワーク的なテーマや『役割』を果たすのに必要な、技量を獲得する下支えとなる修養の基本になる、と今、考えている

お題「#おうち時間

 

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