少数者と武士道

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武士の自由と現代人の自由

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 封建社会は、現代人より不自由だったのか?

 西洋における自由と資本主義の誕生の歴史

 フォン・ミーゼスの『自由と財産』という小論によると、一般市民が、現在享受している『自由』を得たのは、産業革命以降の資本主義社会になってからだという。

 哲学的意味での『自由』は、ギリシャ、ローマ時代に考えられていたが、それは少数者の特権であった、という。政治的には、寡頭政治であり、在留外国人は財産権を認められていなかったか奴隷であった共同体の市民の統治権としての〈自由〉はあった。

 

 中世社会では、王の絶対権力に対する土地をもつ貴族の自由というものがあった。それはエリートと少数の人々のための自由だった。だが、それにより身体障害者や農奴、奴隷を保護することができた。しかし、この時代に農民や職人の自由が制限されていたのは、前資本主義の生産システムが制限的であった故だとしている。

 

 その後、ギルド制度を経て資本主義が現れ、新たな市場原理が誕生する。それは、貴族のための市場ではなく、一般大衆の必要とするものを大量生産する機械化によって可能になったものだった。生産者が同時に消費者となったのである。そこでは、私有財産制が意味を持つ。資本家とは、マルクス主義者が言うような、労働者から一方的に搾取する権力者ではない。なぜなら資本蓄積は、消費者の購買の反復よって可能だからである。

 ミーゼスは、こうした市場原理の台頭を『市場過程は日々繰り返される国民投票であり、財産を市場ニーズに応じて使えない企業は市場から退場させられる』と表現している。

 その結果、幼児期の死亡率は下がり、平均的な人々は昔の人が夢見なかったほどの裕福な快適さを得た、と。

 さらに、政治権力を、特権を持つ少数者の手から一般の人々に移動させた。成人の参政権が産業の解放に続いて生じた。市場過程が起業家と資本家を選択する力を与えた普通の人は、政治の分野で類似した力を獲得した。彼は投票者になった。

 「人々による代議政体は、市場モデルに従って憲法上の事柄を整える試みである」といった見方も出来るわけである。

 この場合の欠点は、政治的分野での少数者の意見は多数者の意思に服従せざる得ない、という事になる。

 しかし、知的な分野では、私有財産が反抗を可能にする。

 社会主義国家は、国家の意向に沿わない詩人や哲学者、文学者の存在を許さない。が、多数者の理解を得ない思考と行為の新しい方法の先駆者も、私有財産があることにより、活動し、働くことができる。

 

 以上のように、西洋における資本主義体制の発展と市場原理の誕生が、「人々の自由」を飛躍的に進歩させた、といえる。そして今ある民主主義、議会制民主主義というのも、市場原理-市場モデルがあったからこそ実現し得た、といえるようである。

(こうしてみると、社会主義シンパが、格差、不平等が、資本主義や市場原理によってもたらされている、という見立ては、お門違いではないか?という疑念を持ってしまう)

 

 自由という概念

 現在、私たちが使っている『自由』という言葉は明治以降のものであるとどこかで耳にした気がするのだが、では、明治以前の日本人は、自由という概念すらなかったかというと、そんなことはないだろう、というのがこの文章のモチーフである。

 

日本人における自由の感覚

日本人にとって西洋の自由の概念に相応するもの…

それは、日本語で言うところの『自ずさ』(自ずと〜する)という言葉の示すものだと私は考える。(『オノズサリ』というコトバが、とある古代文献にあるので)

 

西洋的概念でいうところの自由ということでは、例えば封建社会においては、「生まれ」が重視される(階級があり、身分の規定がある)ので、自由でないように思える。

 

だが、そうだろうか? 選択の自由ということで考えると、お金持ちの家に生まれるか、貧困家庭に生まれるかの選択の自由というものは、現代社会においてももちろんない。

 

現代日本では、皆保険制度、公営年金強制加入という縛りがある。これは、選択の自由がない。現在の日本人が平均して収める税額(保険含めて)40%と高額である。(給与が上がっていないのに納付義務のある税額は増えている。(大変な圧政だが、「福祉のため」という口実に国民は無理やり納得させられている?)

 保険料や固定資産税を納めなければ、私有財産を没収される…罰則を受ける…つまり『選択の自由』がそこにはないのである。(健康保険や年金を民営にするなど、『小さな政府』を志向すれば、『選択の自由』(どういう生き方を選ぶか)は拡大されるが、現代日本ではそういう声は少数派である)

 

武士の自由

 

 武士の家に生まれたものは、武士としての厳しい躾と教育を受ける。礼儀、作法、道徳、倫理を身につけさせられる。上に立つものとしての責任を教えられる(ノブリスオブリージュ)そこにある、『選択の自由』は、『人間として徳の高い、いい武士』になるか、『人の道に外れた悪い武士』になるか、という自由意志に基づく選択である。

 厳しい躾や教育は、それによって『自らを発揮する(天命を果たす』美徳ある自由を実現するための『環境』となる。

 『人の道に外れるか、否か』の選択に自由があることは武士階級に限らず、農民でも商人でも同じである。

 そして「上にあるが如く、下も」そうあるように、町人でも寺子屋などで儒学や数学など学ぶという民度の高さはあった。(商いも利益と社会貢献を両立させる商人道があった)

 また、武士には脱藩の自由もあった。山籠り、世捨て人になる自由もあった。

 

 つらつら考えてみると、封建社会と言えども『オノズサリ』という(理にのっとって自らの天命を発揮するか否かを選択する)自由はあった、と考えられる。

 

 江戸は、当時のイギリス-ロンドンに並ぶGDPの高い経済都市であり、文化都市でもあった。町人は職業選択の自由もあった。(新たな職業を生み出す自由も)

 

 

一般常識的には、現代人の方が『自由』だと思われている。だがどうも、日本の場合、江戸時代の方が、自由はおろか、『文明的』ですらあるのでは?と思えてきた。

 (ちょっと変わった考え方かもしれないが、「こういう変なことを考える奴もいるんだな」という話として読んでいただければと思う)

 私は、現代日本における皆保険制度、国営年金制度への強制加入は『個人の選択の自由』を侵害するものだと認識している。それがなぜ、いけないかというと、政府の権限を大きくし、市場や民間の活動に余計な口出し、干渉、利権がらみの規制など、「国民の面倒をみる」福祉国家のふりをして、政府・官僚たちが権力を行使し、戦時体制時のような全体主義化のプロセスを国民の知らぬ間に辿りやすいからである。

 

米国人が一般的に(共和党支持層-ティーパーティーのような人たちが)オバマがやろうとした皆保険のような一律強制を嫌い、個人の選択の自由を守り、課税率の低い『小さな政府』を支持するのは(特に共和党、保守系)そういうところ(社会主義化を嫌う)もある。

 しかし米国でも、リベラル、民主党はこうした社会主義政策を取ろうとしている。日本はなぜか、こうした米国の左派を手本にしたがる人が多い。

 

 

 私なりに考えると、現代日本より、江戸時代の日本の方が、はるかに自由だった、と思える。

 武士は、高貴な自由を生きていた、と考えると今よりはるかに文明的である。

 

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西郷隆盛が目指したのも『小さな政府』だった?