お金のいらない世界はユートピアか?

 朝、ベッドの上で気だるく、noteを色々眺めていたら、以下のような記事があったので、『お金のいらない世界』について少し考えてみた。

 

note.com

 

……長島龍人(りゅうじん)さんが書いた小説『お金のいらない国』です。オリジナルの1作目は1993年に書かれ、お金の存在しない世界に迷い込んだ人を通して、お金とは何か、仕事とは何かを考えさせられる内容になっています。

 

……ZOZOの前澤友作さん(実業家)が、お金のいらない国について、noteに投稿されたのが話題になりました。

僕が考える世界を平和にする方法は「世の中からお金をなくす」ことです。 お金は便利な反面、その使い方や意味を間違えると、人と人の繋がりを分断します。 人に対する愛や感謝や敬意を忘れさせ、格差や劣等感や無力感を増幅させます。 お金が近代の文明を進化させる大きな役割を担ってきたことは否定しません。そして今日の豊か…

 

 

 等々……『お金のいらない世界』について、色々考えて(空想して)それをユートピア(理想世界)のように捉えている方が少なからずいるのに「へー」と思った。

 

 気持ちはなんとなく分かります……

 

ステルス値上げ

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 お腹が空いたので、卵サラダトーストを作ろうと材料買いに散歩に行く。

 

 卵サラダを手に持つと、以前とするとなんか軽くなっている。それで多少値段も上がっているので、『目立たない値上げ』を企業は行っているのに気がついた。

 …最近、市場経済についてそこはかとなく勉強しているので、「あー、大企業も生存競争がたいへんですね」と思う。『値上げをしたくても、おもむろにできない』苦肉の策。

 

 ここで、「値上げ=悪」とし、国民が「価格統制」をせよ、と政府に要求し、政府がそれに従う、と言ったポピュリズム政策が行われるとどうなるか?

 

 複雑な経済理論は、私にはよくわからないけど、このところ安倍政権の政策で『よくない』と思うのは、例えば、政府の『最低賃金』の強要、『同一労働、同一賃金』の規制・強制、といった『政府が市場に余計な介入』を行って市場の自生的な秩序を乱していることである。(株価の粉飾した人為的『釣り上げ』なども市場にはよくない、と思われる)

 市場の法則が当たり前に機能すれば、物価の上昇に応じて庶民の給与や所得も自然に上がるのが普通である。

 

 上の価格統制の話は、極端な例だが、保守の仮面をつけた社会主義内閣である安倍政権の取っている政策はこれに近いところがあるように思われる。

 端的に言えば、『政府が福祉の充実や手厚い社会保証、格差の解消という名目で国民や企業から膨大な税金を巻き上げ、分配する(あるいは様々な規制を作り企業や個人に強要する)』というこの機構の方が、『市場経済主義』などより、比べ物にならないほどの『悪しき政策』であり、世の中を混乱させ活気を失わさせ、人々の自由を奪う最悪のやり方である。と私には思える。(社会主義的政策の悪を、資本主義経済や市場経済が悪と取り違えているのではないか?)

 

 「福祉は利益活動をすべきでない」のか?

 

 福祉は国が公共事業として行うことが望ましい、道徳的であるといったイメージが世間一般にあるが、本当にそうだろうか?

 

 例えば、介護職の給料が上がらない要因の一つの一例として…

「ストレスチェック」を全施設に課し、職員は聞き取りに時間と労力を取られ、管理者もそうした書類提出、事務関連に多くの時間を取られる。さらに、2年ほど前から、「働き方改革」で残業させない、有給の取らせる、と言った指導を一律強制している…

ことなどが考えられる。

 現場労働者の実感として、「ストレスチェック」は全く無意味。お金(税金)と時間の無駄でしかない。(ストレスの軽減に全く役に立ってない)

 (精神衛生カウンセリング機関が必要なら民間市場で育成すべき。カウンセリングの質も上がるだろう)

 「残業禁止」では、無償残業という悪癖は「改善された事業所」が大部分のようなのでそれなりの効果は認めるが、小人数で回している事業者は残業をせざる得ない。(介護保険の点数制の事務処理の多さを事務員を雇えない事業所は(雇っていても)介護職員が補うケースはままあり、民間事業所の自律性を拘束する政府介入が競争力、給与改善を削いでいる。

 

 厚生労働省の役人が「良かれと思って」やっていることが、実際にはそのおかげで事業所は多大な手間を取られ、従業員の給与の引き上げを阻害する要因になっている。

 そんなイメージ。

 方向性としては、介護事業所の運営・経営の自由化を行えば、特色ある施設、適正な価格設定、働き手の増加など見込めるのではないか? 市場の法則に委ねるべきところは委ねた方が、介護の質も上がる、と私は思える。

 

市場経済主義=弱肉強食というイメージは本当か?

 

 お金=貨幣 というのは、交換手段に過ぎず、それ自体『良いも悪いもない』

 (貨幣を交換の手段にすることで、複雑かつ高度の文化活動の展開がスピーディーに可能になった)

 市場経済は、イデオロギーではなく、自生的法則で機能する。しかし、政府は社会主義イデオロギーをベースにした必要以上に多額な税を取り(さらに借金返済先送りのために国債を発行し)、分配し、市場を歪める。(経済に素人の自分には放漫財政に思えるし、こうした状態で『小さな政府』をあるべき姿とせず、積極財政を唱える人たちには懐疑心を覚える)

 社会主義経済志向の悪い面は、観念的な平等主義によって、『結果の不平等と不公正』を生み出してしまうことだ。

(格差の是正という美辞麗句の行き着く先は、全体の貧困という共産主義社会ではないのか?)

 

 

 ところで……『お金がいらなくなる』と、「みんなが幸福になる」と考える人たちは性善説なのかな?と思う。

 現実に「お金」の価値がなくなる=お金が交換手段として本来の機能を失う、という世界をシュミレーションするために、ハイパーインフレに見舞われたベネズエラの状態を調べてみると…

 

治安の悪化もさることながら、経済状況は悲惨を極める。ベネズエラの19年1月のインフレ率は268万%だという。ベネズエラの通貨「ボリバル」はもはや価値を持っていない。

昨年まで100円で買えたものが1月末には268万円になったわけで、もはや略奪以外に物を手に入れる方法はないのかもしれない。逆の見方をすれば268万円のカネが1ヶ月で100円の価値しかなくなったわけで、すべての国民が同時に破産したのだ。

gendai.ismedia.jp

 

 日本人は、温厚なので、それなりにみんなで助け合ってなんとか回って行くかもしれないけど、物々交換では不便なので何かしら貨幣に変わるものがお金の変わりに使われるとは思う。(キャンディーがお金の代わりに使われた時がある国があったらしい)

 金融破綻した戦後の闇市とか…およそ文化的生活には程遠いように、自分は思える。

 ユートピアではなく、ディストピアだ。

 デフォルト、という形ではなく、国民全体(もしくは一地域全体で)の同意の上で「お金」を捨てる生活を選んだ場合どうか?

 武者小路実篤の「新しき村」とか、70年代のヒッピーのコミューンとかそうした試みに近かったのかもしれない。

(私的には、そういう共同体は新興宗教と同じに思えるので私はパスしたい。思想を押し付けられるのはまっぴらだ)

 

『お金のない世界』を想像し、理想郷があるのでは?という着想を持ち、その方向に思考を進め、何らかの実践活動をされる人たちがいることについては否定する気も水を差す気もないが……

 

 ふと思い起こすのは、ジョンレノンのイマジンの世界である。

 「想像してごらん…国境のない世界を」ってあれである。

 左派にとっては「イマジン」は、ユートピアかもしれないが、リアリズム路線の保守自由主義者にとっては『国境のない世界』はディストピアだ。

 

 個々に空想したり実践する分にはいいが、運動になったら怖いな、と思ったりもする。(自分の価値観を社会全体に押し付けない限りは存分にやっていただいて結構なのですが…)

 

個人的な見解 

 個人的な意見としては、「お金がなくても生活する」ことは可能なのだが、市民税や国保、国民年金、固定資産税など税金の支払額が大きすぎて、その強制的支払い義務のために身の丈以上の(もしくは自分にぞぐわない)経済活動に従事せざる得ない、というのが大変不便であり、拘束感を感じる。

 例えば、余生は山小屋でひっそりと静かに僅かな食料を自給自足で、そしてちょっとした野菜の収穫物や加工品を売って僅かの現金収入を得て…みたいな暮らしが現代日本では、高額の税金負担のため現実にはほぼ、『選択できない』というのが、「何かおかしい」と感じる。

しかし、よくよく考えると、そういう暮らし方は、何千年も多くの人が「普通にできた」暮らし方ではないのか

 市場経済はかなり昔からあった、にも関わらず、昔はそういう暮らしや余生の過ごし方が本人が望めばできた。封建社会でもこうしたライフスタイルを選択する自由はあったと思われる。

 

 そう、私にとっての問題は『生き方の選択の自由がない』ということであり、その元凶は『現金収入がなくても高額の税金、保険料などを支払わねば生存を許されない政府の税制』こそが問題である。

 なので、少なくても私にとっては「資本主義体制が人間を強欲にする」とか「お金が存在するから虚栄心が云々、お金に支配され争いが…」という考え方は全然ピンとこない。人間は多様なんだから、そういう人もいるし、そうでない人もいるでしょう、と。

(それに利益を求めることが悪ではなく、利権で利益誘導することが悪であり、それは市場経済のルールに反する…だから市場経済を正しく回すには〈法の支配〉が必要)

 

 拝金主義を是正するには、道徳や信仰心を高めるとかの方が現実的だ。拝金主義者がお金に囚われるのは、その人がお金を信仰しているからではないのか? 例えば、隣人愛を説く宗教でも信仰すれば是正されるのではないか。(お金儲けに奔走してた人が、ある日お金以上の価値あるものを自然に見出して生き方を転換することもあるだろう)別段、お金をこの世からなくす必要はないし、お金を無くすことが問題の解決ではない。個人の選択の自由を許さない社会体制の方がよほど悪どいのではないか?

 

 要するに、お金というものがあろうとなかろうと、個人の生き方を阻害する要因にはならない、というのが私の結論になる。(むしろ、お金や市場経済の仕組みを破棄すれば、個人の自由は著しく奪われるのではないかと思える)

 この世界で、個人の自由を阻害する要因は、『政府の威圧的な税制、市場の円滑な循環を阻止する(自生的秩序に反する)社会主義的政策と〈法の支配〉の曲解』に他ならないのでは?というのが現在の私の考えである。

 

ベネズエラのハイパーインフレの原因

 ごくシンプルに、ベネズエラが極端なハイパーインフレに陥った本質的原因を抽象するなら『左派独裁政権』『社会主義的政策』左派的な財政拡大路線や、価格統制や最低賃金の引き上げによる民間経済の抑制)の二つの要因が考えられる。

(背景には原油価格の下落など間接要因もあったが通常の自由主義経済の措置でカバーしえた)

 そしてこの二つの要因が共有しているもう一つの要因が、イデオロギーである。 

 ハイパーインフレの原因を作ったのは他ならぬ、チャベス、マドゥロ両独裁政権である。両政権は、国民を統制する手段として、ポピュリズム政治のバックボーンの思想として『新自由主義に抗する反米政権』というイデオロギーを持っていた。

 つまりインフレ、金融破綻の原因を、『アメリカ的な新自由主義、市場原理主義』が敵、悪だ、とすり替えて宣伝し、〈市場原理〉を否定、無視して真逆の金融政策を積み重ねた結果、ディストピアを生み出したのである。

 そしてハイパーインフレの混乱が収束せず長引いているのは、独裁政治家を失脚させられない非民主主義国家だからである。

 

『アメリカ的な新自由主義、市場原理主義』を、全ての悪しきことの元凶のように目の敵している人は、日本の言論界、知識人にも多い。 

 というより、新自由主義や市場原理主義をまともに検証しようという行為がしづらい、という息苦しく混濁した言論環境が日本にはある。

 

民主主義の欠点は、大衆迎合のポピュリズム政治に 陥りやすいことである。

政治だけでなく、知識人の言論を見ても、大衆主義的民主主義が支持を得やすい。

(大衆主義を否定する西部邁のような保守派の知識人でさえ、その思想は反米・反自由主義的であり、そうした思想が庶民に共感を持って読まれている、という光景がある)

 

 

警戒すべきは、全体主義化することであり、自由市場経済を健全に維持する(方向修正する)ことができれば、全体主義化(社会主義化促進による全体の貧困化、不自由の増大、言論の偏向による迷走)を阻止し得るのではないか?

 

長文、拝読いただきありがとうございました。

 

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以下、資料

 

 

ironna.jp

 

ハイパーインフレのもたらす弊害は大きい。生活必需品を含めて、日々の暮らしが困ることは容易に想像できるだろう。
 
 自国通貨が「紙切れ」同然のために、生活必需品を外国の通貨や物々交換で手に入れることが常態化する。当然、消費水準が抑制されてしまうので、経済活動は停滞する。失業者は増加し、世情も不安定化してしまうだろう。

 

 

もともと、ベネズエラは豊富な石油資源を活用することで、中南米でも富める国であった。半世紀前の生活水準は、当時の米国の8割ほどに迫っていて、事実上の「経済先進国」とも言えた。

  だが、他方で経済格差は深刻の度合いを深め、やがてそれは「反米」を唱えるチャベス前政権を生み出す原動力となった。取りあえず、米国の国際金融資本が石油で得た富を奪い、それが同国に貧困と格差を生み出したという、「チャベス流」にありがちなストーリーが生まれた。いわば、「『米国流』の新自由主義の犠牲者だった」というのが、チャベス前政権やそれを支援している世界の左派勢力による主流の見方であったのだろう。

 

 

 チャベス前政権では、経済格差を根絶しようと、低所得層向けの社会保障の支出を急増させていった。他方で価格統制も行われ、自由な経済活動は損なわれていった。
 
 また近年では、原油価格の国際的下落により、先述の産業構造上、ベネズエラ経済が急速に低迷した。膨張する支出と、経済悪化で縮減する政府収入の中で財政状況が悪化し、そのファイナンスをやがて中央銀行が発行するマネーそのもので行うようになる。つまり「財政ファイナンス」という手法である。これは中央銀行のマネタリーベース(資金供給量)の急増を生む。
 わかりやすくいえば、政府のツケを中央銀行がおカネを刷って、どんどん払ったために、自国通貨の価値が対外的に大きく下落せざるを得ないのである。このとき、金融政策はインフレを沈静化する役割を失っている。それが「金融政策の自律化がない」という意味だ。
 
 反米や反新自由主義を唱える左派勢力には、ハイパーインフレは欧米の経済制裁の結果であり、生活必需品の不足によるものだという認識だろう。だが、生活必需品の不足もチャベス、マドゥロ両政権の左派的な政策が引き起こした高インフレ、ハイパーインフレの帰結である。
 
 日本共産党は樹立当初のチャベス政権に対して、新自由主義に抗する反米政権という理由からも、その活動に期待を表明していた。最近は、マドゥロ政権の独裁ぶりへの批判に転じているが、日本共産党は「反米」「反新自由主義」にこだわる余り、チャベス、マドゥロ両政権の評価を首尾一貫したものとはしていない。前述したように、マドゥロ政権の混迷は、既にチャベス前政権の政策で準備されていたからだ。