新渡戸稲造の「武士道と修養」

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新渡戸稲造『武士道と修養』



昨日、図書館で、新渡戸稲造(にとべいなぞう)の『武士道と修養』を少し読んだ。

 

その中に

「自分が目指すのは、何をやっている者かわからないが、人間として確かだ、と思われることである。

 職業があろうがなかろうが、重要されていようがいまいが、鋤を持っていようがペンを持っていようが、雑誌記者であろうが肥桶を担いでいようが、そんなことは構わない。 

 社会から外れても、あるいは社会からつまはじきされても、人間として僕は僕だ、というくらいのところまで行けたら、しめたものだと思う。達磨のように蹴飛ばされても転ばず、人を怨まず天を恨まず、毀誉褒貶など気にかけず、職業はどうあろうと、一個の人間として天を楽しみ地を楽しんで世を渡るなら、実に満足で愉快な人生ではなかろうか。そこまで行くくらいの考えでやったなら、小さな不平などなくなってしまうはずである」

 

とあった。おおらかである。

 

また、

 

「高いところを行く、

 高いところに目的を置いて世渡りをする。

 これがこの世を世渡りするときに心すべき点だろう」

 

といった言葉もあった。

 

 バランス感覚。妙な精神主義などない。それでいて世俗主義にも静かに距離を置くスタンス。

 こうした伸びやかで自由な気風に触れると、幕末生まれの日本人の精神風土というものがうかがい知れるのだが、張り詰めた糸のような気骨に貫かれたスピリットを感じる。

スマイルズの自助論が翻訳されよく読まれたのも明治の頃である。

日本人は、元来、正しい意味での自由主義的な精神を持つ民族であった、と思える。