少数者と武士道

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吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」は、なぜ「気持ち悪い」のか?

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実は、道徳を装う『左翼カルト本』だった 

 安倍政権の是非と「先の戦争」を起こした元凶などについて色々考察していた。

 

 その資料としてあれこれ保守主義系のブログの記事を読み漁る中で、「君たちはどう生きるか」という、戦前に吉野源三郎という知識人が書いた教養小説が、実は左翼イデオロギー(社会主義思想)に人々を誘導する魔毒を秘めた作品であることに言及した記事があって興味深かったので色々調べてみた。

 

 吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」は、2017年に漫画化され、200万部を越えるヒット作になった。本屋であの眼力(めじから)の強い丸メガネの少年の表紙を見かけた人も多いことだろう。

 

 私は、その漫画作品の方は読んでいない。肯定的評価も多いので、原作と異なるアレンジになっているかもしれない。ここでは、対象をマンガ版ではなく小説に絞って検証したいと思う。

 (…と言っても、実は小説の方も今回、読んでいない。タイトルがツボだったので中学生の頃に読んだ記憶はあるのだが、全く心に響くものもなく、面白いとも思わなかった。今回、吉野源三郎の思想含め、色々検証してみて「なぜ、面白くなかったか、全く響くものがなったか?」それどころか「不快感しか残らなかった」のかその理由がよくわかったので、自己整理も兼ねてレポートしてみたいと思う)

 

(引用部分は適当に読み飛ばしてください) 

 

「君たちはどう生きるか」のあらすじ

舞台は1937年の東京。主人公はコペル君という中学1年生。本名は本田潤一君です。

コペル君というあだ名は「人間は世の中を作っている分子だ。」という発見をした彼に「コペルニクスと同じくらいの大発見かもしれない。」とおじさんがつけてくれたものです。

おじさんはそれ以来、いつかコペル君に見せようと、コペル君の発見や日々の出来事、アドバイスなどを大学ノートに綴っていきます。

そうしてコペル君を励まし、その生き方を導いてくれる人になるのです。

コペル君のクラスに浦川君という子がいました。

その子の弁当のおかずが毎日あぶらあげだからと、いじめっ子グループから「あぶらあげ」と陰で呼ばれたり、ちょっかいを出されたりします。

ある時、それを見かねた友達がいじめっ子のボスにけんかを売ります。

その時、浦川君はけんかを止めに入り、なんと自分をいじめていたボスを助けるのです。一方的にやられるのがどんなにいやかを想像したのでした。

コペル君がこの出来事をおじさんに話すと、おじさんは、感じたことをちゃんと伝えるようにと言ってくれました。

ある日、コペル君は欠席している浦川君の家を訪ねます。そしてそこで、赤ん坊を背負って家業の豆腐屋の手伝いをしている浦川君の姿を見るのです。

コペル君は、「浦川君はほんとにすごい!」と感動します。

それを聞いたおじさんは、ノートにこう記しました。

浦川君の洋服に油揚げのにおいがしみこんでいることは、浦川君の誇りにはなっても、決して恥になることじゃあない。

コペル君は日々いろいろなことを発見します。

ある時は、自分が赤ん坊の時に飲んでいた粉ミルク、ラクトーゲンの缶を見つけ、オーストラリアの牛、牛の世話をする人、乳を工場に運ぶ人、粉ミルク工場の人、汽船で運ぶ人、日本の港の人、薬屋さん・・・と、何千、何万の人が自分とつながっていることを発見します。

日々、いろいろなことに気づき、また正義感に燃えて、生き生きと生活するコペル君。

コペル君は、友達が危ない時は絶対に逃げずに戦うと宣言し、なかまと約束します。

それなのに、なかまを裏切ってしまうのです。

コペル君は友達が上級生にひどい目に遭っている時、知らんふりをしてしまいます。

コペル君は自分のしたことをひどく後悔し、打ちひしがれます。

しかし、お母さんが持ってきてくれたおじさんのノートには、こう書かれているのでした。

僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。

だから誤りを犯すこともある。

しかしー

僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。

だから、誤りから立ち直ることもできるのだ。

 

 

君たちはどう生きるかの要約とあらすじについて!ネタバレが気になる!感想と考察もチェック! - 今日を明るく

 

 

おかしな倫理観 

 道徳小説としてこのストーリーを読んだ場合、まず引っかかるのは、

『いじめっ子グループから「あぶらあげ」と陰で呼ばれたり、ちょっかいを出され』ていた浦川君が、『自分をいじめていたボスを助ける』という美談の不自然さ。

 ちょっと「いじって」た程度なら、そもそも浦川君の友達は、いじめっ子に喧嘩を売るだろうか? 現実的に考えれば、陰湿で卑劣な虐めだったから浦川君の友達は、浦川君を助けるために喧嘩を売ったはずである。それを『一方的にやられるのがどんなにいやかを想像し』止める浦川君。それを讃えるコペル君。なんとも転倒した世界だ。

 そしてあまりに観念的な絵空事である。悪に対して然るべき制裁を加えないことを、あたかも「徳が高い」かのように見せる演出。

 こういう理屈だと犯罪を犯したものに、「罰を受けるのは気の毒」と罪を許すのが道徳だ、的な話にもなりかねない。

 上のストーリーにはないが、別のところで読んだあらすじによると、この後、そのいじめっ子が自分の兄に告げ口し、お兄さんに浦川君の友達がボコボコにされる、というくだりがあるらしい。つまり、浦川君がかばったことで、いじめっ子は自分の罪を認識せず、逆に自分で自分を一方的に被害者に仕立て上げ、逆恨みした、ということになる。(まるで、日中戦争に日本をひきづり込んで共産党支配を確立した中国共産党が、角栄の日中友好条約あたりから、中国を被害者に仕立てて日本から膨大なカネや技術を貢がせ、日本を侵略国呼ばわりしているのと相似しており、不気味ですらある)

 

 つまり、浦川君の行為は、真に徳のある行為ではなく、「自己陶酔的で観念的な善」つまり独善ということである。(独善を讃えるコペル君も何か偽善くさい)

 

戦後の平和運動のプロデューサーだった吉野源三郎

 こういう偽善哲学を、あたかも崇高な精神、徳が高いかのように「見せかけ」インチキ道徳を青少年に刷り込んだ作者の吉野源三郎とはどういう人物なのか?

 

 吉野源三郎は戦後の平和運動のプロデューサーだった。

 岩波書店の『世界』の編集長として平和問題談話会や憲法問題研究会を組織し、憲法改正を阻止する上で決定的な役割を果たした

 本書の「国と国が争うのではなく、すべての人がよい友だちであるような世の中が来る」という心情倫理は、いつまでも幼児のまま大人になれなかった日本の左翼を象徴している。

 

ikedanobuo.livedoor.biz

 

 なるほど、である。 吉野源三郎は、『元祖 脳内花畑』だったのだ。

 侵略国の脅威に晒されていても、国防強化は悪、という偽善哲学を『進歩的道徳』とし、『反戦平和主義』(侵略され放題が崇高な人間像)と洗脳したルーツでもあった。

 しかし、戦後は「脳内花畑」で、日本を危機に晒す知識人であった吉野は、戦前は、あの不合理で必要のない戦争を推進する勢力の一端に位置していたのである。それは、吉野がいかなる思想に耽溺していたかで明らかにすることがきる。

 

吉野源三郎の世界観とその背景

 その吉野源三郎とは、いかなる世界観を持っていたのか?……実は、この小説自体が、マルクス主義(当時、それは「社会科学」と称されていた)的世界観をがっつりベースにした『左翼イデオロギー洗脳小説』でることがわかった。

 

主人公コペル君が発見した「人間分子の関係、網目の法則」を、おじさんは「生産関係」のことだと解説し、「まだ人間らしい関係になっているとはいえない」という。それは(資本主義では)人々が他人のためにではなく、報酬のために働くからだ。貧しい豆腐屋の子がいじめられるエピソードは、解説で丸山眞男が指摘しているように、階級闘争の寓話である。

 

池田信夫 blog : 君たちはどう生きるか

 

 小説の冒頭シーンで、人間を分子のように見立てるところがある。コペル君の気づきを「叔父さん」は世紀の発見かも、と持ち上げる。

 これは作者の吉野源三郎の世界観でもあるわけだが、吉野に限らず、マルクス主義世界観を信条にする人の特徴は、こうした「高いところから社会全体を見下ろしている」視点で社会構造を科学的に捉えている(かのように錯覚しているに過ぎないのだが)という自負心を持っている点だ。(このあたりの優越意識が、無神論者である左翼が自分たちをあたかも神のごとき視点を持っているかのように思い込んでいる根拠になっている)

 

 まずは「人間分子観」だ。これは冒頭のエピソードで銀座のデパートの屋上でコペル君が街の光景を見た後に、作者・吉野がコペル君に「人間って、おじさん、ほんとに分子だね。僕、今日、ほんとうにそう思っちゃった」と言わせたセリフに出てくる考え方で、わたしは元の本を読んだときから、そのわざとらしさと、隠れた説教臭に強い異和感を覚えた(コペル君の名も、実は近代科学に寄与したコペルニクスから来ている)。著者・村瀬は、たぶんそれとよく似た異和感を、「左翼分子」「革命分子」「反革命分子」「異端分子」などという言葉を立て続けに並べて、巧みに言語化している。

 それを乱暴に要約すると、「人間」を「分子」として「上から見る」発想は、「おじさん」の言うような「素晴らしい発見」ではなく、すでに歴史的に一度破産している全体主義、左翼全体主義が奉じた、「近代科学」への妄信にほかならないのではないかというのである。わたしはそれを読んだとき、虚を突かれたように納得し、そう言えば「昔は共産党細胞などという言葉もあった」と思った。そして、その手の近代科学一辺倒の「科学的視線」が、ナチズムの優生思想やスターリニズムの恐怖につながったのではなかったかと。

webronza.asahi.com

 

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 吉野源三郎「君たちはどう生きるか」は、社会主義思想のプロパガンダ本である。その本の社会主義思想を導こうとする巧妙なカラクリを、村瀬学氏はいつもの丁寧なそして分かりやすい指摘で抉り出す。 もう社会主義思想が廃れてばれないと思ってか、こんな腐った本を墓穴から引っ張り出してきて、漫画を使いベストセラー化するとは卑怯な方法だ。村瀬氏のこういうしっかりした本がなければ容易に若者は騙される。社会主義思想が遠くなった功罪がここにある。 吉野はナポレオンを礼讃しているが、実はレーニンかスターリンを礼賛したいのが見えている

『君たちはどう生きるか』に異論あり! | ダ・ヴィンチニュース 読者書評より

 

特権階級者が「階級闘争」に走る心理 

 吉野源三郎自身は、裕福な「特権階級」である。

 当時(日中戦争前)、マルクス主義は学生や知識人の間で、最先端の学問としてもてはやされていた。

 マルクス主義は、労働者階級が特権階級を革命によって倒して絶対平等の理想郷を作ろうという共産主義革命運動に繋がるため、結社活動は取り締まりが強かったが、実際はザル法で、「思想そのものが危険」とはされていなかった

 むしろ、時代的に、昭和恐慌により資本主義への不信、地方農村の壮絶な貧困などがあり、知識人の間では共産主義や社会主義に傾倒することが「未来的」だと思い込まれていた、という時代背景がある

 

高田里惠子によれば本書は、教養主義の絶頂期にあった旧制中学校の生徒に向けて書かれた教養論でもある。

 高田は、官立旧制中学の代表格であった東京高師附属中学校(現・筑波大附属中・高)出身の著者により描かれた主人公たちの恵まれた家庭環境や高い「社会階級」に注目し、本書が「君たち」と呼びかける、主体的な生き方のできる(つまり教養ある)人間が、当時は数の限られた特権的な男子であったことを指摘している。

君たちはどう生きるか - Wikipedia

早い話、 吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」とは、共産主義革命のアジ本(アジテーション=扇動、洗脳目的のプロパガンダ(宣伝本)だった、というのが真相、ということになる。気持ちが悪いわけである。

 

 それにしても、特権階級を否定するマルクス主義を、労働者階級の人々ではなく、特権階級の知識人たちが持ち上げ、被れるというのも面妖な話だが、察するに「後ろめたさに対する免罪符」の効果があったのではないか、と思う。

「下層階級の労働者のために、自分は共産主義革命を支援し、平等な社会づくりに貢献しているんだ」というような。

 言わせてもらうと、全く浅はかである。当時、本当に有能な教養人、経済学者は少数ではあったが、マルクス主義や共産主義の嘘を見抜き、市場経済、資本主義経済を守ることが日本の国体である、と正気を失ってはいなかった。(東大精神科学研究所(民間シンクタンク)の小田村寅二、田所廣泰など)

精神科学研究所 - Wikipedia

 そして小田村、田所ら自由保守主義者は日中戦争拡大にも反対し太平洋戦争 の早期終結も進言し、そのため政府に睨まれ「弾圧」されたのである。

 マルクス主義のような魔毒に知識人や指導層が汚染されるということがなければ、あの8年に渡る戦争もなかったと言っても過言ではない。

 

 また、一方で、マルクス主義のような、こういう革新思想に洗脳される昭和初期の特権階級の多数派の左派知識人というのは、『ノブリスオブリージュ』(地位あるものの責任)という伝統的な保守の哲学が廃れるほど「劣化」していたんだなぁ、と思わされる。(明治維新前の日本人にはその精神は確固として見られる)

 

 

 この作品の「気持ち悪さ」のもう一つの要因は、以下のブログの評にあるような『大衆を嫌悪しつつ持ち上げる叔父さんの口調』『作中で「あの人々」と呼ばれる愚昧で恵まれぬ大衆を嫌悪しつつ持ち上げる不思議さ、気持ちの悪さからくる違和感』である。

 

浦川君に代表される、清く正しい生き方をしているのに不当に虐げられ見くだされ、貧しい生活を強いられる憐れで同情してやらなければならない不幸な人々。それは、教育がなく愚かで身なりも汚ない人々であり、それを教育のあるエリートである叔父さんやコペル君たちが味方になり救うことこそ社会正義である、というようなことが読み取れるように、というよりも、あからさまにダイレクトに書かれていて、今の時代にこんなものは通用しないだろう(まあ子供の頭脳なら洗脳されるかも)と思うのだが、なぜこのような本が「大絶賛」され、テレビ番組で紹介されるのか、不可解千万である。
 
関川夏央「家族の昭和」(新潮文庫)という本があり、そこに「君たちはどう生きるか」について書いてある個所がある。
そこに書いてあることは、私の感じた「上から目線の教養主義」「共産主義の正当性を言おうとしている、一時代前の古い思想」ということに加えて、私が見通せなかった、細かい分析がなされている。要約(と原作からの補強)すると、次の通りである。
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大衆を嫌悪しつつ持ち上げる叔父さんの口調は、資本主義社会は限界に達したと信じ、自分の「階級」を恥じ、自分の土地を小作人たちに譲った有島武郎を連想させる。そのもの言いには、山の手的環境と「知識人」という立場の特殊さが色濃く反映されている。そして、作中で「あの人々」と呼ばれる愚昧で恵まれぬ大衆を嫌悪しつつ持ち上げる不思議さ、気持ちの悪さからくる違和感がある。
 
作者である吉野源三郎の「大衆像」は、「狭いごみごみした商店街の、薄暗いじめじめした小さな店ばかり、軒の低い長屋づくりが並ぶところに、貧乏な浦川君の家はある。その狭い通りに、エプロンを掛けたままのおかみさんや、背中に子供をくくりつけた女の人が、ぞろぞろと歩いている間を、ゴム長靴の若い衆がくぐり抜けていき、汚い身なりの子供たちが飛び出してくる。ざわざわとした空気の中には、へんな臭いが漂っている」と表現される。
 
貧しき友である浦川君の生家である豆腐屋のおかみさんは、髪をくし巻きにした、肥ったおかみさんである。そして「ね、坊ちゃん、むさくるしいところですけど、たまにはこんなうちも見ておきなさいまし」とコペル君に言う。お父さんは、金策に出かけていていない。
大衆のたくましさを表す「肥ったおかみさん」や、大衆の行儀の悪さ、下品さを代表する「しつけがよくない、ずるそうな眼をした弟」などに、生活に追われ、下町に生きる人々に対する、インテリである作者のものの見方が現れている。それは、大衆への好意(畏れ)と嫌悪である。
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私も同様に感じ、コペル君に、生産関係、分業、消費などの言葉で社会構造を説き、経済学、社会学という学問であることを説明し、「この世の中に貧困というものがあるために、どれほど痛ましい出来事が生まれて来ているか。どんなに多くの人が不幸に沈んでいるか。また、どんなに根深い争いが人間同士の間に生じてきているか」と説明しているのを見ると、格差社会、不平等の問題を説いているマルクス主義の本、「資本論」の解説本を読んでいるような気分になる。
 
コペル君の友人である水谷君のお父さんは、方々の大会社や銀行の取締役、頭取とかの肩書きを持ち、財力があり、水谷君の部屋は、新館と呼ばれている別棟の中にあり、鉄筋コンクリートの建物であり、どの部屋にも十分に日光がはいるようにできていて、庭には芝生があり、芝生のはずれには、立派な助走路のついた正式の跳躍競技場も作ってあり、水谷君のお姉さんが練習に使っている。食事は本館の食堂で、高い天井からは豪奢な飾り電灯(シャンデリアであろう)がさがって、金色の壁には大きな油絵の額が掛けてある。食卓の上には見事な花が盛りあげてあり、真っ白なテーブル掛けの上には立派なナイフやフォーク、銀のさじがおいてある。そして水谷君のお母さんは、堀君(お父さんが政治家で、おじいさんが貴族院議員)と友達になることを奨めている。
そして、コペル君のもう一人の友人である、貧乏な豆腐屋の息子である浦川君の勉強部屋は、北向きの粗末な三畳の部屋で、曇りガラスがはまっていて、その上の方の透しからは鋼のような冬の青空がのぞいているが、風の唸り声が聞こえて、ガラス戸は絶えずガタガタと震えている。小さな机があり、そこに薄っぺらな座布団を敷いて、火鉢に差し出す浦川君の手には、霜やけがいっぱい出来ていて、大きなあか切れが口をあいている。弁当のおかずは毎日油揚であり、おまけに煮てない生のままであり、浦川君に近づくと油揚げの匂いがする。
 
まあ、よくここまで「金持ち」と「貧乏人」の対比を持ち込んだと感心するが、「搾取する資本家階級」と「搾取される労働者階級」の不当な社会の格差が存在することを読者に印象づけるための設定だということはわかるが、そこまで極端にしなくてもいいのでは……。

 

胡散臭いが? 吉野源三郎「君たちはどう生きるか」 TBSテレビ「教えてもらう前と後」「池上彰の大絶賛本」 関川夏央「家族の昭和」: 佐藤千夏夫のブログ

 

 はっきり言って、無学な庶民でも高い見識や道徳意識を持つ人々は多い。庶民のカンというのは案外間違わないことが多い(日本人には特に庶民の道徳意識のレベルが比較的高いように思う。)

 吉野が描く『妙に貧乏人を持ち上げ美化する』描き方は、自分の優越意識を隠すためのとってつけたような作為を感じる。

 

 左翼(進歩的知識人)の特徴として、「自分たちは、特権階級からも大衆から抜きん出た超越的存在だが、大衆を救うための革命(体制破壊)に従事しているから、神的正義・倫理を持つ平等主義者だ」という「慢心隠し」がある。(これが、革新…左翼野党の本質的な心理的レトリックでもある。彼らが階級闘争史観という超時代遅れの似非イデオロギーを手放せず、自らの存在証明の根拠とし続けるのはそうした自己欺瞞癖によるのではないか?)

 これが、普通の庶民には正真正銘、傍迷惑な「お節介」「要らぬ世話」であるのは、「マルクス主義被れ」の軍人、政治家、知識人が大東亜戦争を引き起こし、牽引、画策したことで、庶民は塗炭の苦しみを味合わされた、という事実でよくわかる(大東亜戦争は、本質的には当時の赤い指導層による敗戦革命、共産主義革命戦争、謀略戦争である)

 そして現在も、進歩的知識人や左翼の「要らぬ世話」のおかげで、日本は侵略の危機に見舞われ、社会主義的な「大きな政府」により、高すぎる税金、官僚を食べさせるためにあるとしか思えない不必要に多すぎる規制や干渉、政府の介入により市場経済の活性化と成長を阻害している。(元を正せば、未だに政府官僚は左翼知識人らとグルになって社会主義イデオロギー浸透させている。自民党も、である)

 

日本の生産性が最下位なのはなぜか | Conservative Blog Japan

「人材不足」なる蜃気楼・・・国破れて政府あり | Conservative Blog Japan

政府が介入して民泊はお陀仏 | Conservative Blog Japan

 

 吉野がどのように大東亜戦争に寄与したかは、以下のブログに詳しい。が、些か煩雑なのと、筆者が口の悪さでは右に出るもののない中川八洋の論考なのでコアな人以外は読み飛ばしをお勧めします。

 

 

 19377月に新潮社から出版された『君たちはどう生きるか』は、ちょうど究極のスターリン狂で共産主義者・近衛文麿が、「対蒋介石戦争」を開戦した19377月と同じ年/同じ月であった。

「対蒋介石殺害戦争」を、当時も「日支事変」だと偽装語で誤魔化し、戦後もまた「日中戦争」だと嘘ラベルを張った。が、近衛文麿が日本国民を騙して日本の国費と日本の若者の命を蕩尽した「八年間の対支戦争」は、中国共産党の毛沢東に依頼されるままに、反共の蒋介石を殺害して支那全土を毛沢東の手に渡すことを戦争目的とした戦争だった。

 

 そればかりではない、吉野源三郎に少年用赤化洗脳教本の書き方を教えたコミュニスト山本有三が、大東亜戦争を煽動して昭和天皇/吉田茂など親英米派・大東亜戦争反対派を封殺した朝日新聞に『路傍の石』を連載開始したのも、この1937年であった。山本有三は、河上肇の直系で日本のスターリン細胞のボス近衛文麿グループの一味であった。人脈図を描けば、「吉野源三郎──(少年を共産革命戦士に改造する教本の書き方の師弟関係)──山本有三──(ソ連軍の日本侵略誘導の赤化集団)──近衛文麿」ということになる。つまり、吉野源三郎とは、東アジア共産革命戦争(=「大東亜戦争」)のれっきとした一味で、悪魔そのもののスターリンの犬だった。

 

 なお、『君たちはどう生きるか』は、一時的に目を患った山本有三に代行し、ピンチ・ヒッター的に吉野源三郎が書いたもので、山本有三が企画編集した(1935年に第一回配本の)全十六巻「日本少国民(=「少年少女」のこと)文庫」の最後の配本第十六冊目であった。また、この「日本少国民文庫」シリーズは、日本の若者をアジア共産化革命の祖国叛逆大東亜戦争に駆り立てるべく、山本有三が近衛文麿に依頼されて企画出版したと考えられる。

 

 コミュニスト山本有三もコミュニスト吉野源三郎も、大東亜戦争の八年間にわたり一度も、小声ですら大東亜戦争に反対していない。心底からアジア赤化の大東亜戦争に狂喜乱舞していたからだ。

 

blog.livedoor.jp

 

 吉野や朝日新聞系の左翼が、戦後、反戦平和主義や憲法改正に反対の立場に固執したのは、大東亜戦争を影で牽引したマルクス主義者勢力の一翼を担っていたことの『アリバイ隠し』だと思う。

 丸山眞男のような戦後リベラルが、あの戦争の真因をすり替えたのも、右翼や軍国主義なるものに『責任転嫁するためのアリバイ工作』である。(戦後の左派知識人はこぞってこの歴史の真相隠しに腐心した、といえる)

 

日本が『再び赤い悪夢』に落ちないために

 グーグルで検索すると、「君たちはどう生きるか」の感想文の例などがたくさん出てくる。親が子供に読ませるだけでなく、学校でも教材に使っているのだろう。

 マンガの方は、どういったアレンジがされているのかわからないが、概ね原作と大差はないのだろう。

 ああいった擬似道徳を道徳本として読まされる子供たちや青少年は気の毒である。

 しかし、「君たちはどう生きるか」に違和感や気持ち悪さを感じる感受性を持つ読者は一定数はいるはずである。

 そして、「気持ち悪い」と感じるのは、「感受性がまとも」だからだ、と私は言いたい。

  その理論的裏付けとして、わかりやすくまとめられなかったのは残念だが、おいおいまた手を加えてわかりやすくするかもしれない。