大岡越前とマノスベのサトリ

大岡越前の『法』はフレキシブル?

東山紀之主演の BS時代劇「大岡越前5」を観ながら私は、〈カタカムナ〉の『マノスベの物理(サトリ)』を思い出していた。

最近、日月神示(ひふみ神示)を読み込んでいるのも、『マノスベ』の精神が伺えるから、というのも一つの理由である。

(『マノスベ』というのは、〈天然の法則性〉のようなもの、つまり天然の〈理〉(コトワリ)のことである。善悪云々ではなく、真理や根本原理を志向している。(摂理に反すれば悪という現象的結果が生ずる、的な感じ……)

 

 

 先日観た、「大岡越前5」では、世継ぎ問題で対立する老中のお家騒動に巻き込まれた越前が、騒動の発端となった「文書」をあっさり焼いてしまう、というシーンがあった。この行為はマノスベ的には正しい。(それによりお家騒動が妙にこじれずに、倫理道徳的に道に反していた老中が罰せられるという結果になった、(しかしこの老中は、越善の上司であった。つまり越前は義理より正義を選択した)が、今の法律に照らせば、証拠隠滅ということになるのだろうけど……)

 

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「大岡越前5」の東山紀之

英米の『法の支配』の概念と越前のマノスベ

英米の『法の支配』という概念も根本では『正義』『真理』を志向しているものである。方向性としては、マノスベを志向しているものだと思える。英国の憲法が不文法で、慣習法というそれまでの判例や伝統的な法に根ざすというフレキシブルな自由度を持たせているのもマノスベの判断は状況に応じて千差万別であることを考えると道理にあっている。

 

英米の『法の支配』を根底にする『保守主義』(コンサバティズム)が優れている点は、《主権者は国王でも政治家・官僚でも国民でもなく〈法〉(真理・正義)である》という概念である。この概念が、全体主義化を予防・阻止する礎になっている。

 

つまり、〈権威・権力者・国民の上に法がある〉というのが『法の支配』の肝である。日本の精神も、君主が間違っていれば仕えている者であってもそれを糺す、という精神があり、その点で『法の支配』の概念は日本人に合っている。(残念ながら現在の日本の法曹界の常識はだいぶ変節していると思われるが)

 

「大岡裁き」は不合理?

下の記事に書いてあるように、「大岡裁き」というのは、法治主義的には不合理である、という意見も最もである。

 

「大岡裁き」は最悪の判決である

 

もっとも、巷にある「大岡裁き」というのはほとんどがフィクションであるようだが、「大岡裁き」に人々が共鳴するのポイントは正義に対する姿勢と『情味』ではないか?

 

拷問を制限し冤罪防止に努めた〜忠相の正義への志向〜

越前こと忠相が名奉行として支持されるようになったかというとが、以下の記事を読んでわかった。

nihonshi.hatenablog.com

 

忠相が行った司法改革

家族や一族も処分する『連座制』を廃止

冤罪防止のため拷問を重罪者のみに制限

耳そぎ刑、鼻そぎ刑を廃止し入れ墨刑へ

遠島刑、追放刑を制限し罰金刑へ

 

ことに、冤罪を見破り、冤罪防止に努めたことも功績は大きい。

世に伝わる「名裁き」はフィクションであるようだが、越前のモデルである忠相が行った司法改革は、日本的な〈マノスベ〉の精神に根ざしたものでもあったようだ。