「自分らしい生き方=逝き方 〜 在宅医療での自然な看取り」講演レポートといろいろ思ったこと

『在宅医療』の講演会に出席

愛媛県松山市で在宅医療専門クリニックを運営されている医師の永井康徳氏の講演会を聴いてきた。

「自宅で親を看取りまでしたい」と思っている自分にとっては、貴重な話だった。さらに、「自宅で看取りをする」というのは、これからの時代のスタンダードなスタイルになると思うので講演内容のレポートを記しておこうと思う。

 

 注:ちなみに、講演を聴きながら『〈いかに死ぬか〉という意識的な選択が、いかに生きるか、という〈生き方〉にも繋がっている』という問題意識を持っていたので、レポートというより、自分の思ったことのメモも多いです)

 

きっかけは、「点滴を拒否して安らかに逝った102際のおばあちゃん」 

 永井氏は在宅医療を専門、中心にした「たんぽぽクリニック」「たんぽぽ俵津診療所」を運営する『医療法人ゆうの森』の理事長を務め、「在宅医療における看取り」の分野で大きな実績を上げている。

 そんな永井氏が、〈在宅医療での自然な看取り〉を中心に活動されるきっかけは、約20年前。

当時は、まだ、最期は病院で迎え、食べれなくなると点滴で栄養補給するのが当たり前の時代でした。

ある時、在宅で療養する102歳の方が、いよいよ最期を迎える状態で食事を受け付けなくなりました。本人は「点滴はしなくていい」と言い、家族は「最期まで治療を」と望みました。

家族と話し合いを重ねた後、本人の希望を受け入れ、点滴をしなかったところ、むくみもなく、穏やかに大往生されました

最期を迎えるとき、点滴は本人の負担を大きくすることもあります。亡くなるまで点滴をし続けるのではなく、死に向き合い、自然な看取りを行うことが最も楽なことを学びました」

                 (医療情報誌Hint、永井康徳氏インタビューより抜粋)

 これ聴いて目から鱗でした。「最期の点滴って どうよ?」と思っていたのですが、「やはり…」という感じで。しかし、医療現場で『最期の点滴』をせずに〈在宅医療での自然な看取り〉を実地でされる態勢作りは大変だったろうと思います。

 

 実際的な話、自分が親を自宅で「看取ろう」とした場合、地元の医療機関に「点滴しないでください」と言って〈自然な看取りの在宅医療〉をどこまでしてくれるのかな?という不安は大きい。

 

『不自然な往生』が常態化している現在の日本の医療

 以下は、自分自身の経験からの話。

 施設の介護職員をしている時に、何件かの看取りを経験した。その時、強く疑問に思ったのが「無理にでも食べさせて栄養を取らせる」「食べれなくなったら点滴、そして痰の吸引・・・」などが当たり前のこととして行われていたことだ。

自分で調べてみたところ、「無理に食べさせたり(点滴などで)栄養補給することは、過剰に水分摂取させることで、むくみが出たり、痰が多く出たり苦痛を長引かせる」とあった。

そして「食べれなくなったら無理に食べさせずに最期を迎えさせることが、安らかに苦痛なく往生する自然な姿」である、というのを知識としては自分も知っていた。(最期における『点滴』という不自然な延命措置により、食べずに安らかに逝く自然死より1〜2ヶ月寿命は伸びるものの本人の苦痛と周囲の介護負担は二乗倍に増える)※(ちなみに老衰状態で胃瘻(胃ろう)をすると寝たきり状態で1〜2年以上延命できるが、意識活動も停止しているような状態でなぜ身体だけそのように延命させるのか、理解しがたい、と思った)

欧米では「食事を摂らなくなったら無理に食べさせず、不自然な延命もせずに安らかに逝く」のが常識だという。(逆に無理に食べさせるのは虐待になると言う。日本の介護施設の常識とは逆だ)

個人的な考察だが、本人には苦痛しか与えない(そして尊厳死にも反するような生き方を)日本でこうした〈不自然な延命措置〉を家族が望んでしまいがちな理由は、『死は忌むべき悪』として否定する観念の刷り込みがあるからではないだろうか?(これは私たち現代を生きる日本人が『〈死〉とまともに向き合わない』ことを常識化しているからのように思える。

だから老衰死であっても、それが当人に苦痛を増やし、尊厳を奪い、介護者の負担も大きくするものでも「一日でも長く生きらせるのが善」と勘違いしているのでは?と思う。(倫理・道徳観の歪み?)

(だとするなら、当人にも周囲にも苦痛や負荷をかけない〈自然な看取り〉を社会的なコモン・センスにしていくには〈意識を変える〉必要があるのかもしれない)

  

最期の時に『点滴をしない』とどうなるか?

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『在宅医療での自然な看取り』永井康徳氏講演会資料より

 端的に言って、「最期の時には点滴をしない方が人間らしく逝ける」と言える。

 逆に「最期の時に点滴をすることで、過剰な水分で痰が出て、吸引をしなければならず(チューブを喉に入れて排出する…当人にとってはかなりの苦痛である)また、痰が詰まると窒息するので24時間、吸引出来る態勢が必要であり、吸引は医療行為なので本来、資格を持った人員が必要…そのため大抵は入院という措置を取らざる得ない。また最期の時間が点滴で長期化するので、清拭、オムツ交換、褥瘡防止の体位交換など介護も長期化…」などデメリットが多い。

 

つまり、「最期の時の点滴をしない」ことのメリットは計り知れないほど大きい。

 

 

ACP=人生会議の必要性

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人生会議

ACP=アドバンス・ケア・プランニング だと分かりづらいので『人生会議』と言う名称で厚生省が最近、推奨しているらしい。リビング・ウィルやエンディングノート、終活などこの系列だろう、と思う。

 

こうした取り組みは、最近巷で活発になってるものの、根底にあるのは『死生観』の問題であり、個人的には先に書いたように『意識を変える』意識性が伴わなければならないと思う。

「いかに死ぬか」は「いかに生きるか」と言う個人領域の問題なので、ACP=人生会議を国が推奨するというのも意外というか違和感というか、お門違いな気もするが、シンプルに「家族で話し合う」「自分はどのような逝き方を望むか」考える契機になるなら、それはそれでいいのかな、と思ったりするのだが・・・

 

 

square.umin.ac.jp

 

www.mhlw.go.jp

 

toyokeizai.net

 

意思決定で大事なこと

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講演スライド
  1. 家族だけではなく、本人の意思を最優先
  2. 考え得るすべての選択肢を提示する
  3. その時点で関係するすべての人と十分に議論する
  4. 決断に迷う当事者に寄り添い、決断は変わっても良いことを伝える
  5. 後で「これで正解だったんだ」と言ってあげられるプロセスを踏む 

 

 

独居の方を自宅で看取るための3つの条件

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この3つ目の『関わる皆が、「亡くなる瞬間を誰かが見てなくてよい」ことを理解していること』は重要かと。

なんとなく、私たちは「亡くなる瞬間に側にいないといけない」と思い込んでいるが、そうすると24時間傍に誰かが張り付いていないければならない。

 

点滴をしなければ(そして場合によっては痛みを緩和する緩和ケアをしてもらえれば)静かで穏やかな時を一緒に過ごせる。間際の言葉や様子を家族は聴いたり、共有できる。そしてお互いに「別れを告げる」ことができる。自然な『往生』の時を共有できれば、死の瞬間に立ち会えなくても心残りはないはずだ。

 

 

看取りの質を高めるために必要な8つのこと

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  1. 不安を取り除く
  2. 信頼関係をつくる
  3. 死に向き合う
  4. とことん楽にする
  5. 医療を最小限にする
  6. 亡くなる再期まで食べる
  7. 患者のやりたいことを支援する
  8. 一緒に悩み、納得できる意思決定の過程を踏む 

 

その人らしさや、自由、自分が生きた意義・・・そうしたことは最期の時に限らず、元気に生きている時も重要なことだが、死の間際にそうしたことを確認することは、互いに重要であるはず。

残された者にとっては、「終わりの時の現実」と向き合うことで「今を生きる」本当の意義、「今をどう生きるのか?」を真剣に考えさせられる、のではないだろうか?

 

住み慣れた場所で看取りが増えるために必要な7つのポイント

 

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最初の項目に「意識改革」が出てきた……そして「理解」

  1. 死に対する意識改革
  2. 医療を最小限にする
  3. 死への過程の理解
  4. 不安を取り除く
  5. 意思決定支援の方法(ACP)の普及
  6. 看取りの文化を変える
  7. 看取りの質を高める

 

永井氏は、従来の医療の『施す』医療を『Doing』、それに対し看取りの医療で重要なのは『Biing(支える)』(寄り添う)だと言われていた。

医者は、「一日でも長く患者さんを生かす」ことが医師の仕事である、と教え込まれ、またそれは間違いではない。しかし、その一辺倒で構築された医療業界で、様々な歪みが出ている。高齢化社会…自分の暮らす市町村は、全国平均の28.4%に対して36.8%。3分の1以上が高齢者である。(従って国民健康保険もかなり高い)しかし、『人口の3分の1の高齢者』というのは、あと何年か後の日本である。

「どのように老い、どのような最期を迎えるのか?」を真剣に考えるのは〈時代の要請〉でもある。

 最後に

記事の中でも書いたように、介護の現場で働いた経験を通して「現代日本社会は、『死』というものと真剣に向き合って来なかった。その結果が自然死を否定した歪んだ死に方が当たり前の社会を招いている……」という漠然とした認識が自分にはあって息苦しい不自由感というか拘束感を感じていた。

というのも、

人間本来の「自然な逝き方」の選択がない社会というのは、結局、「本来の自分らしい生き方」を選択できない社会である、とも言える、からである。

 

現代社会は一見、多様な価値観を尊重しているかのように見えるが、実際は偏向した価値観や押し付けがましい(というか洗脳的な)世界観が結構多かったり支配的だったりする。(そのくせ、日本の伝統的な価値観の見直しなどには見向きもしないどころか前時代的、と否定的だったりする)

「自然な看取り」が可能な社会に移行することは「自分らしい生き方」(あるいは伝統的価値観)を認める社会に転換することにも繋がりえる、と少し思った。希望的観測かもしれないが……