家で親をみる、ということについて

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昨日おとといの日曜、月曜と休みだったので、昼、夜計4回食事を作った。鳥の唐揚げとか、麻婆豆腐、かぼちゃのそぼろ煮、大根と厚揚げの煮物・・・など。鏡開きのぜんざいなども準備した。

 

うちの母親は82歳。数年前に脳出血で倒れ、麻痺と認知症が後遺症で残っている状態。父親は、そこそこ元気だが、88歳なので、年相応に「ガタがきてる」(と本人曰く)しかし、まだ車を運転して買い物に行ったりしている。

 

母親は、「おおきに」と言ってくれるが、父親は特に何も言わない。長年、料理は誰かがしてくれるもの、という感覚があるせいか・・・あるいは、感謝の気持ちがあっても昔の人だから口に出しづらいのかもしれない。

 

夜は、日曜祭日以外は、今は弁当を配達してもらっている(二人の分は)

二日間、昼夜料理したのは、父親が体調不良だったためだ。特に頼まれたわけではない。

しかし、足を引き摺って歩き体調の悪そうな父親の姿を見ると、食事の支度をするということは自然な情、ではある。料理は嫌いではないのだが、続くと疲れる。主婦の方は大変な労働を負っているな、と思う(今更だが)

 

こういうことは、義務感でやると重荷になる。

しかし、「親を施設に預けずに家でみる」というのは、相応に自分の時間を犠牲にして家事やら何やらする、ということである。

経済活動と家事と親を見る時間のバランスをどのようにとって行くか・・・今後の課題でもある。

 

母親は、麻痺や認知症があるにも関わらず、自分のことはほぼ自分でやっている。数年ほど、介護施設で働いていたので、要介護1である程度自分のことは自分でできる、というのは驚きでもあるのだが、これが自然な姿なのかもしれない、と思ったりする。

母親を見てると『周囲に甘えられない環境であれば、既存の能力でなんとか環境適応しようとする』という人間の持つ『復元力』を目の当たりにしてるようで学ばされる。

施設に入った利用者さんを、職員が過度に世話することで急速に機能が衰え、心の安らぎや穏やかさ、充足感などを失っていくケースを見ているだけに、「人間の潜在能力を発揮させるのには環境の力は大きい」と認識せざる得ない。

 

自分なりに、二人に対しては最小限のサポートを心がけているが、実際それほどの介護らいしいことは特にしていない。(母親には週に一度爪を切るくらいだ)にも関わらず、二人どうにかこうにかではあるが、元気に家で暮らせていることに「守られているなぁ」と感じたりする。そこに何か大きな力が働いているように感じてしまう。(特に何かの宗教を信仰しているわけではないのだが)

 

しかし、一方で現実として際どい「綱渡り的生活」を送っているなぁ、と感じたりもする。この現状がどこまで保てるか、保証はない。

 

 

できる限り、二人とも「家で看取り」までしたい、と思っている。